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「正しさ」の危うさについて、哲学ゲーマーの視点から考える

正しさ

「正しい」という概念は、強い力を持ちがちです。

ですが、その危うさについて考えたことはあるでしょうか?

今回は、哲学ゲーマーの視点から、「正しさ」の危うさについて考えていきます。

「正しい」という概念についての疑問

正しい

よく「正しい」とか「正しくない」とかって言われますよね。

私はこれに疑問があります。

そもそも「正しい」って何よ?

「正しい」という言葉が使われるたび、「何をもって」「正しい」とするのか、疑問に思うことが多いです。

ここで言っているのは、1+1=2だとか太陽が東から昇るとかというよりも、主に「判断」の「正しさ」についてですね。

どちらの選択肢を選んだのか、重要な局面でどのように動いたのか…そういった類の話です。

「正しさ」は結果論の域を出ない?

結局、ある判断が「正しい」とされるためには、その判断によって何らかの「よい結果」がもたらされることが必須だと思うのです。

1回こっきりの人生における判断なら、結果論で語らざるを得ないところもあるでしょう。

一見滅茶苦茶な方法でも、「勝てば官軍」ということもありますから。

ゲームにおいては「正しい」方法が「定石」とされる

これがゲームの類になると、統計的に見てよい結果が出やすい方法が「正しい」とされたりします。

いわゆる「定石」というやつですね。

「定石」は罠ではないか?

定石

この「定石」は、哲学ゲーマーとしての一意見ですが、非常に危険な罠であると考えています。

例えば、以下のような場合を考えてみてください。

  1. 期待値的に見て成功確率が51%と49%の方法2つがある
  2. 51%の方が「定石」と呼ばれる方法である

おそらく、このケースにおいて、51%の方法を選ぶことに口を挟む人はほとんどいないでしょう。

たとえ、結果的に失敗したとしても、「仕方がない」の一言で済まされると思われます。

これはすごく危ういと思うのです。

なぜ危ういのかを説明します。

49%の「可能性」は葬り去られる

確率的にはわずか2%の差であり、しかもその後の展開の変化を考慮すると、49%の方法のほうが有効な場面も少なからず存在するはずです。

にもかかわらず、より成功が見込めそうな方法が他にあり、かつその方法が一般的に受け入れられているものだと、実際の確率以上にそちらが選ばれるきらいがあります。

結果として、それ以外の有力な方法の可能性が潰されることが多いのです。

(これは人生にも似たことが言えると思います。しかも、人生のほうが一度きりで周囲の影響等もありたちが悪いです)

「定石」を「暗記」しようとしてしまう

ゲームにおいては、こういった思想が支配的になりがちです。

「ゲームには絶対の正解があり、その正解をミスなく選び続けることが一番である」

私はこの思想に一切同意しません。

そんなお役所仕事的なプレーをしたくてゲームをやっているわけではないのです。

何もお役所仕事が悪いというわけではなくて、ゲームという臨機応変な対応が求められる世界においてそういう姿勢はどうなの、という話です。

よく、「定石を暗記しろ」・「型を真似ろ」みたいな風潮がありますよね。

確かに、これは初動においては有効にはたらくとは思うのですが、途中で猛烈に足を引っ張ります

無意識のうちに定石に「逃げて」しまい、それ以外の道を潰してしまうんですね。

その状態から抜け出すには、「正解思考」を捨てる必要があります。

臨機応変なプレーの重要性を感じて書きました

 

「正しい」・「正しくない」という考え方からの脱却!

これだけは覚えて帰ってください。

「何かを正しいと判断することは、それ以外を正しくないとして捨てること」

まさに可能性の放棄であり、極論すれば思想への弾圧なんですね。

正しさはあくまで結果論にすぎず、一見確からしい方法でも他に道があるかもしれない。

そのように考え、正しいか正しくないかの二項対立から脱却する必要があると考えます。

 

最後に

今回は正しさの危うさについて考察しました。

正しさにこだわるあまり、周りを傷つけ、可能性を潰していないでしょうか。

そういった問題提起を行いました。

何らかの考えるきっかけになりましたら幸いです。

 


 

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