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あえて答えは出さない!? 思考実験「砂山のパラドックス」からゲームを語る!

砂山

今回は、思考実験「砂山のパラドックス」について、ゲーマーの視点から書いていきます!

「砂山のパラドックス」とは?

砂山

砂山のパラドックスについて説明します。

砂山から砂を一粒取り除いても砂山のまま

例えば、目の前に砂が積もってできた砂山が存在したとします。

この砂山から、砂を一粒取り除いたとしましょう。

一粒くらいなくなっても、砂山は依然として砂山のままですよね。

二粒、三粒と取り除いても砂山のまま

同じように、二粒、三粒…と取り除いていったとします。

やっぱり、砂山に変わりはありませんよね。

ですが、その調子で残り一粒まで取り除くと、やがて砂山でなくなる

しかし、同じようにして一粒ずつ砂を取り除いていき、やがて最後の一粒になったとしましょう。

それは単なる砂一粒にすぎず、「砂山」と呼べるものではないはずです。

いったい、どこで「砂山」と呼べなくなるのかわからない

一粒、二粒、三粒と取り除いたときは、間違いなく砂山のままでした。

ですが、どんどん砂を取り除いていくと、どこかで「砂山」と呼べなくなるときが来るのです。

しかし、いったい何粒取り除けば砂山が砂山でなくなるのかは、誰もわからないのです。

このように、砂山であるはずのものがどこから砂山であるかわからなくなる問題のことを、「砂山のパラドックス」と呼ぶのです。

別パターン「ハゲのパラドックス」がわかりやすい

砂山のパラドックスには「ハゲのパラドックス」というパターンもありまして、こちらのほうがわかりやすいです。

髪の毛がフサフサの人を思い浮かべてください。

その人から髪の毛が1本抜けても、フサフサのままですよね。

ですが、1本、また1本…と抜けて髪の毛が残り1本になったら、その人は間違いなくハゲです。

こうなると、髪の毛が減っていく過程で「フサフサ」と「ハゲ」の境目があるはずなんですが、「○○本目がフサフサとハゲの分かれ目だ!」なんてことは言えないわけですよね。

このように、明らかに状態が変化しているにもかかわらず、その境目を捉えられないというパラドックスなわけです。

 

ゲーマーの実力にも「砂山のパラドックス」が存在する

この砂山のパラドックス、ゲーマーの実力を語るときにも存在します。

「上手いプレイヤー」と「下手なプレイヤー」のミスの多さにも「砂山のパラドックス」が当てはまる

例えば、上手いプレイヤーはミスが少ないわけです。

上手いプレイヤーはミスを1つしたって上手いプレイヤーのままです。

ですが、あまりにもミスを連発するようだと、下手なプレイヤーになります。

このように、上手いプレイヤーと下手なプレイヤーの間にはミスの数に差があるわけですが、具体的にどれぐらいのミスの多さが上手い下手を分けるのかははっきりしていません。

これは砂山のパラドックスと同じ現象が起きていると考えられます。

答えを出そうとしすぎる――習熟したプレイヤーの「砂山のパラドックス」問題

ある程度習熟したプレイヤーほど、「上手い」と「下手」の差について、「砂山のパラドックス」問題に陥りがちになります。

「上手い」と「下手」の境目は、完全には捉えられないことがほとんどです。

ですが、より上手い人との境目が「どこにあるのか」、はっきりとした「答え」を出そうとしてしまうのです。

もちろん、上手い人との違いについて考えること自体は重要です。

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ですが、どこが違うのか、往々にして答えは出ません。

ちょうど、砂山と砂粒の明確な境目を見つけられないように。

にもかかわらず、「答えを出すこと」に固執してしまうと、迷宮入りしてしまうおそれがあるのです。

 

結論:境目の場所ではなく状態そのものを見るべき

結論から申しましょう。

境目の場所ではなく状態そのものを見るべきです。

その理由を述べていきます。

具体例:練習して自転車に乗れるようになったとき

例えば、自転車に乗れるようになったときのことを考えてみましょう。

「乗れない」状態が長く続いた後、突然「乗れる」状態がやってきたのではないかと思います。

この両者を隔てる境目を捉えたと思ったときには、もう自転車に乗れるようになっているわけですね。

重要なのは乗れるか乗れないかそれだけであり、境目はどうでもよいのです。

だから、状態そのものを見るべきだと考えます。

あえて「答えを出さない」ことも必要!

なぜ自転車に乗れないか考えるよりも、乗れるようになるまで練習したほうがいいのです。

それと同じで、「あえて答えを出さないほうがよい」問題もこの世には存在するように思います。

砂山のパラドックスはまさにその典型ですね。

答えがない、または非常に見つけにくい問題の場合は、「答えを出さない」という判断が適切になることもあるでしょう。

上手いプレイヤーとの差については、完全にはつかめなくてもよいのです。

ただ状態の違いを認識し、その違いと向き合い続けることで良い状態を目指すことこそが重要なのです。

「定義できないものは定義しない」。

そういった決断をすることもまた、哲学には必要なのではないかと考えます。

 


 

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