哲学

哲学者パスカルの名言「人間は考える葦である」から、人間の尊さの本質について考える

パスカル

今回は、哲学者パスカルの有名な名言「人間は考える葦である」について書きます!

名言に込められたパスカルの真意とは、いったい何だったのでしょうか?

パスカルの名言「人間は考える葦である」とは?

パスカル

パスカルは、17世紀フランスの哲学者です。

著書『パンセ』の中で、「人間は考える葦である」という名言を残しています。

この言葉自体は有名ですね。

もう少し詳しく言うと、「人間は葦のように弱い存在であるが、考えることができる存在である」ということです。

宇宙が人間を押し潰しても、人間は宇宙より尊い

パスカルはこう続けます。

宇宙に比べたら、人間は非常に弱いもの。

しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰そうとも、人間は宇宙より尊い

宇宙は何も知らないが、人間は自らの存在や死について意識し考えることができるからであると。

具体例:猛獣は力が強くても人間より尊くなれない

宇宙だとちょっとイメージしにくいので、もう少し具体的にわかりやすくしましょう。

例えば、ライオンやクマなどの猛獣は人間よりもずっと力が強いですが、彼らが人間を殺したからといって、人間より尊くなるわけではありません。

彼らはもっぱら本能のみに従って生きていますが、人間は本能を離れて考えることができるからですね。

パスカルはこのようなことを言っているのだと考えられます。

 

反論:本当に考える葦は尊いのか?

ですが、このパスカルの思想を聞いて、疑問に思った方もいることでしょう。

「本当に考える葦は尊いのか?」と。

目まぐるしい世界の中で、人間はあまりにも無力

葦に例えられる通り、人間として生きていると、嫌でも無力さを認識させられます。

人生はままならず、希望は裏切られ、やがて必ず死ぬ…

むしろ、何も知ることのない動物のほうが、ある意味では幸せなのではないかと思ってしまうぐらいです。

「尊い」という言葉も、死を前にしては虚しく響く

百歩譲って、人間という考える葦が尊かったとしても、死を前にしてそう言えるでしょうか。

いくら尊厳を強調したところで、死によって踏みにじられた後では虚しく響きます。

「尊いというのは空論だ」…そう思ってしまっても無理はありません。

死生観について書いた記事

 

「いくら考えても、所詮は葦」

そうやって見ていくと、「いくら考えても、所詮は葦」みたいな考え方が出てきても不思議ではありません。

考えたところで、知ったところで、押し潰される運命は回避できないわけですから。

 

それでも、やはり人間は尊い

尊い

ですが、「それでも、やはり人間は尊い」のだと私は考えます。

それはなぜでしょうか。

「存在の強さ」と「尊さ」は別のもの

というのも、人間を尊いものたらしめているのは「存在の強さ」ではないからです。

繰り返しになりますが、力だけを比べれば宇宙のほうが強いです。

ですが、人間の尊さは力や存在の強固さによって決まっているわけではありません。

誤解を恐れずに言えば「無力だが尊い」のです。

人間の尊さは「認識すること」にある

宇宙と人間との決定的な違いは、人間は自らが無力であることを「知っている」ということです。

人間の尊さの根源は、力の有無ではなく「認識すること」にあるのです。

無力さを認識するからこそ、宇宙を力として認識することもできる。

すべては認識が形作っているわけです。

そこに人間の尊さがあるわけですね。

 

結論:己の無力さを受け入れることこそが、人間の持つ強みである

このパスカルの思想には、現代社会において示唆に富む部分があるように思われます。

我々は、尊さの根拠に「力」を持ち出しがちです。

ですが、力だけで言えば宇宙のほうがはるかに強いわけであり、人間という時点で五十歩百歩です。

そうではなく、己の無力さを正しく認識し、それを受け入れて動くことにこそ、人間の尊さがあるのではないでしょうか

これは、力を持つことを諦めろと言っているわけではありません。

人間というものはもともと弱い存在であり、弱さを知らなければ力もまた認識できないのです。

逆説的ですが、弱さの認識こそが人間の最大の強みなのだと考えます。

葦にすぎない弱さと、考える強さ。

パスカルの名言は、現代に生きる我々の「いたずらに力を追い求める」姿勢に警鐘を鳴らし、人間の真の「力」について考えさせてくれるのではないでしょうか。

 


 

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