哲学

人生とは? 死とは? 哲学ゲーマーが「死生観」に真正面から切り込む!

死生観

人間はいつか亡くなりますが、そのことを忘れて生きがちです。

ですが、哲学ブログたるもの、死の問題については避けて通ることができないのではないかと感じました。

そこで、今回は「死生観」について思うところを書いていきたいと思います!

なぜ死生観について書こうと思ったのか

なぜ

まず、なぜ死生観について書こうと思ったのでしょうか。

過ぎていく日々の中で、改めて「終わり」を認識する

当然のことですが、人生は永遠に続くわけではありません。

にもかかわらず、なんとなく日々を過ごしている部分があるなと。

そこで、もう少し「終わり」を意識して、そこから逆算して生きていくべきではないかと感じたのです。

哲学をやるうえで「死」は避けて通れない問題

このブログでは哲学を扱っていますが、哲学にとって死は代表的な問題です。

そのため、当ブログでも1回は正面から触れていく必要があるのではないかと考えました。

昔と今とでは死生観がだいぶ変わっている

そして、死生観について考えていく中で、十代のころと現在とで私の死生観がだいぶ変わっていることにも気づきました。

以下、その違いについて書いていきます。

 

十代のころの死生観

それでは、昔、すなわち十代のころに抱いていた死生観について書きます。

人生は虚無の海である

暗い海

十代の頃の、哲学を大学で学ぼうとしていたころの死生観はこうでした。

「人生は虚無の海である」

どのように生きたとしても最後は死という終わりに還っていくという、ちょうど虚無が海のように広がっているイメージでした。

でも、魚はただ泳ぐ

その一方で、私は自分自身を海を泳ぐ魚に例えていました。

魚にとっては、海が虚無であろうがなかろうが、ただ泳いでいくだけです。

これは、「仮に人生が虚無であろうとも、私たちにできることは生きることだけだ」といったニュアンスを含んでいました。

ちょうど、哲学者ニーチェの「永劫回帰の無意味な人生を超人によって超える」という思想に影響されていた部分もあるでしょう。

ニーチェの記事一覧!

 

現在の死生観

昔と比べて、現在の私の死生観はどのように変わったのでしょうか。

人生はすべて「途中」である

途中

イメージとしては、人生の終端に「死」という区切り線があって、そこに至るまでの過程がすべて「途中」になっている感じです。

「死」を「絶望的な終わり」というよりは単なる「確定点」として捉えるようになりました。

振り返ったときに、嫌な思いはしたくない

人生は、常に「死」という区切り線のいくらか前にいるわけです。(向こう側に行ってしまえばそれはもはや人生ではありません)

そうなると、区切り線のほうを見つめるだけでなく、後ろを振り返るということもあるわけですね。

振り返ったときに見えた景色が、絶望的なものだったらどうしますか?

おそらく、「このままでは絶望的な人生が確定してしまう!」と思うことでしょう。

普段からそうならないようにしますし、たとえそうなってしまったとしても、現在の動きを変えることで、現在に対する過去の「意味付け」を全力で変えようとすると思います。

※意味付けを変える…例えば、成功した後のエピソードでは、それまでの失敗や苦労が美談として扱われたりしますよね。そういうことです。

このあたりはアドラー心理学に通ずるところがあるかもしれませんね。

十代のころの死生観との違い

十代のときの死生観との違いは、主に次の二つでしょう。

  • 死に対するイメージの重さが減っている
  • 現在や未来以外に過去の視点が入っている

このあたりは単純に自分が歳をとったのかなーと。

死がなじみの薄いものから、少しずつ自分にとって身近なものになりつつあること。

人生を少し長く生きたことで、過去の記憶が積み重なっていること。

こういったことが影響しているのでしょうね。

 

今の死生観が「人生は遊びである」につながる

人生は遊びである

さて、私は「哲学ゲーマー」として、「人生は遊びである」という思想を持っています。

プロフィールにもありますが、改めて簡単に説明しますと、「人生の無意味さを、楽しむことで超えていく」という意味が込められています。

プロフィールはコチラ!

 

この思想は、昔から今への死生観の変化とも大きなつながりがあります。

「遊び」には「余裕」という意味もある!

先ほど、人生はすべて「途中」であるという死生観について書きました。

「途中」ということは、「確定していない」つまり「変化するだけの余裕を残している」ということです。

これは、「袋のスペースに遊びがある」といった、「余裕」という意味での「遊び」に対応しています

「決まったわけじゃないんだから、難しい顔してないで楽しもうよ!」

そんな気持ちが込められていますね。

死ぬことだけは決まっていますが、途中の人生はいくらでも変えられます。

どうせなら柔軟に生きたいじゃないですか。

「遊び」に「負の感情」は持ち込まない!

今の死生観のところで「嫌な思いはしたくない」と書きました。

これ、すごく大事なことだと思うんです。

考えてみてください。

心に憂いがある状態で、楽しく遊べるでしょうか。

「こうしておけばよかった…」という感情は人生を蝕む毒です。

後悔のない選択肢を常に選び続けることこそが、心に真の「遊び」をもたらのではないでしょうか。

人生をこころよく確定させたいなら…とるべき選択は決まってきますよね。

 

最後に

今回はややもすると重い記事になってしまうかもしれないという懸念がありました。

ですが、最終的には、今この段階で書くことができてよかったと思っています。

死の問題は、目前に迫るまで見過ごしがちですが、哲学ブログなら自然に扱うことができます。

このあたりにも、自分がブログをやる使命が隠されているのかもしれません。

 


 

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